三角州に建つ広島城!カープの鯉城を探検しよう

広島 # #歴史
2022.07.07

広島の中心部は三角州の地形が特徴的です。
ゆるやかな川の流れの間に建つ広島城は、その地形の特徴を活かし自然の要塞に守られたような形で悠々と建っています。
また、カープの本拠地でもある広島では、ゆかりのある広島城は別名「鯉城」とも呼ばれています。

昔から広島の街を見つめてきた広島城、一度は戦争中に原爆で全て焼失してしまう出来事がありました。
しかしその後、忠実に再建され、現在は立派なお城の姿を見ることができます。
ショッキングな運命を辿りながらも、今もなおその歴史を伝える役割を担い続けているお城です。

当時の掘り跡の様子も見ることができる広島城を、歴史をかみしめながら楽しく散策してみましょう

広島の中心部は三角州の地形が特徴的です。
ゆるやかな川の流れの間に建つ広島城は、その地形の特徴を活かし自然の要塞に守られたような形で悠々と建っています。
また、カープの本拠地でもある広島では、ゆかりのある広島城は別名「鯉城」とも呼ばれています。

昔から広島の街を見つめてきた広島城、一度は戦争中に原爆で全て焼失してしまう出来事がありました。
しかしその後、忠実に再建され、現在は立派なお城の姿を見ることができます。
ショッキングな運命を辿りながらも、今もなおその歴史を伝える役割を担い続けているお城です。

当時の掘り跡の様子も見ることができる広島城を、歴史をかみしめながら楽しく散策してみましょう。

広島城のあゆみ

広島城はどのような歴史の中で建てられたのでしょうか?

広島城のある地域は中国地方の中心部でした。そのため、政治や経済を動かしていく城郭の必要性から、広島城の築城となりました。

またこの地域は、昔は「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれており、付近に鯉が多いことや、「コイ」の発音が「鯉」と通じることから、“鯉(コイ)の城”と呼ばれるようになったそうです。

毛利輝元が築いた広島城

安土桃山から江戸時代にかけて、当時の戦国大名は毛利元就の孫の毛利輝元でした。
南北朝時代から郡山城の一領主であった毛利輝元ですが、元就の背中を見ながらぐんぐんと力を付けて、中国地方の大半を支配する戦国大名になりました。

広島城を築城の際には、豊臣秀吉が築いた「聚楽亭」や「大阪城」を見物し、お城のお手本にしたようです。
城地は政治や経済の中心地として十分に機能するよう、自然の要塞がある太田川河口三角州に定められ、1590年頃に約2年程かけて建てられました。

城主の代替わり

1600年の関ヶ原の合戦の後、毛利輝元に代わり、秋・備後2ヵ国の領主として福島正則が城に入ると、広島城の整備に力を発揮しました。
外掘や外郭をしっかりと造り広島城の完成と至ったようです。
また福島は、広島城へ行きやすいよう西国街道や出雲・岩見街道まで整備しています。

しかし、災害による城の修築許可の不備をとがめられた福島氏は失墜し、代わりに浅野長晟が入城するようになります。
以後約250年間浅野長晟が広島城主をつとめました。

歴史のさまざまな出来事によって城主の代替わりがあり、城の機能も必要性も変わっていったようですね。

明治以降~時代に揺さぶられた広島城

廃藩置県が行われ、明治時代になると広島城の在り方も変わってきます。
城内に旧陸軍の施設が入るようになると、城内の建造物が少しずつ減らされていきました。

明治7年には本丸・三の丸で出火する事件が起こり、本丸御殿などが焼失していまいます。
残った大天守や中・裏御門、二の丸などが広島城の存在を表していましたが、第二次世界大戦中1945年8月6日の原爆により、広島城内の歴史ある建造物は全て焼失してしまう運命に至ります。

数奇な運命をたどる広島城ですが、後の1958年に天守閣が旧天守閣の外観を再現した形で再建されていますよ。

広島城を歩いてみよう

広島城は、その広大な規模でも有名です。
現在では天守閣や二の丸が主な史跡ですが、昔の櫓(やぐら)の位置を調べてみると、おびただしい数の櫓が城を守っていたことが分かります。太田川沿いから京橋川ぎりぎりまで、敷地面積はおよそ1㎢ほどあったとされています。

天然の川による堀で左右を覆い、さらに内堀・中掘・外掘の三重の堀をめぐらしていたため用心深さでは群を抜いているでしょう。

表御門・裏御門

現在の城跡を見るため、広島城への入り方を近くの方に尋ねると、「どちらの門から入られますか?」と聞かれました。
広島城には2つの入り口があるようでしたが、一般的に有名な表御門の方から行くことにしました。

“表御門”手前の“御門橋”を通る時には、「なるほど鯉城!」と叫びたくなるほど鯉がたくさんいましたよ。
立派な橋の先には立派な門が悠々と構えていました。

尚、裏御門は、逆にひっそりとした雰囲気で、現在の街並みになじんでいる印象でしたよ。

二の丸

門をくぐると、ややこじんまりとした広場のような庭があり、二の丸が脇に建っています。
長細く置かれているこの二の丸は、出撃の拠点である馬出し機能を持ち、メインの本丸正面を守るように、少しガードするような位置に設置されています。

史跡マップを見ると気付くのですが、配置をよく考えられて建てられていることが分かり、知恵が素晴らしいと感じられます。

二の丸には復元された櫓が3つあり、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓です。この立派な櫓達が城を守っていたんだ、と灌漑深く見入ってしまいました。

広島護国神社(本丸下段)

中御門を通りいよいよ本丸ゾーンへ入っていくと、“広島護国神社”が見えてきます。
広島カープ球団が毎年必勝祈願に来ることでも有名な神社であり、多くの人が広島市内での各種行事の際にはここへ祈祷しに来ています。

桜の池跡

明治31年に建造されたこの桜の池は、池の形が本当に桜型になっており、美術館の芸術品のようで美しく素敵ですよ。

池の中には鯉がおり、優雅な印象です。
しかし、池に水鳥達が隙を見てやってくるため鯉はうかうかしていられない様子。
もし白いアオサギがいたら鯉を狙っているかもしれません。
美しい池の様子とは裏腹に生存競争は熱く、生き物達の戦いも見どころです。

広島大本営跡(本丸上段)

本丸下段から石段を上がると、明治7年に焼失された大本営跡が見えてきます。
大本営跡は、堀を残して当時の様子を物語っているようです。
堀跡がいくつかあり、本当はもっと建物がひしめき城内の活気を高めていたのだと感じられるスポットでした。

大本営跡の付近には被爆樹木のクロガネモチがあり、原爆があった事実・忘れてはならない歴史を伝えるものだと気付きます。

天守閣

旧天守閣はおよそ1952年に完成していたと見られていますが、正確な年月日は不明なようです。
現在の天守閣は、旧天守閣と同様の位置に再建されています。
城内の敷地の一番奥に位置しているため、敵から身を守れるように配置が考えられていることが分かりますよ。

広島城は典型的な平城で、礎石の上に下から第1層・2層・3層・4層・5層という構造になっています。
下の層ほど天井が低く、層が上がるにつれて高さもアップする造りは敵から守る術のようです。

現在では、第1層から4層までは、武器の刀や甲冑などの展示をしており、最上階は展望台で広島の景色を一望できるようになっていますよ。

まとめ

広島市内の観光であれば、広島城は近くの縮景園や広島県立美術館と合わせて行ってみたいスポットの1つでしょう。
毛利氏など、昔の戦国大名達の息吹を感じながら歴史を感じられることができますよ。
園内は広いため、観光と健康づくりをしながら散策を楽しめると良いですね。